「知っている」ことと「悟っている」
ことの間には大きな違いがあるだろう。
なぜなら「知っている」とは知識の範囲内
であり、「悟っている」とは体験を伴った
理解であるからだ。
例えば本で料理の研究をしていたとしても、
実際に作ったことがなければ「知っている」
の範囲内である。
熟練の料理人は失敗に失敗を重ね、
体験を伴って成長してきたから
料理においては「悟っている」と言えるので
ある。
熟練の料理人にしても、
その意識のエネルギーは料理そのものに
向けられているのであって、自らの心に
向けられているわけではない。
確かな実践を伴った真の宗教家や
スピリチュアリストは、その意識のエネルギー
を自らの心に向けている。
つまり自覚意識を保っているのである。
それゆえエゴである人格がより良く成長
するのである。
(エゴ=精神。自我。生れ育った周囲の環境や
情報によって育まれた記憶からなる無意識的な
反応をする心の状態。元々備わっている性格。)
様々な分野の学者や専門家が普段は
人間らしい愚かさを備えているのに対して、
覚者が完璧な人格を含んでいるのはその様な
理由からである。
その違いは、自覚意識の道を通って覚者と
なった人のエゴは、起きている間中常に意識
(内なる慈愛) に晒され続けたことによって
全身を構成する素粒子が高い波動状態に
あるからである。
世の中に知識は溢れている。
普通の人間がその全てを理解するのは
不可能である。
ある人が人生をかけて世の中の知識を
誰よりも多く得たとしても、宇宙の全てを
理解することは到底できないだろう。
我々はその辺にあるコップ一つについてさえ
本当に正しい情報を知ることは出来ない
ではないか。
そのコップの背景にまでことが及べば尚のこと
正確に知ることなど出来ないのだ。
そして多くの知識を得たところで、
彼は誰よりも多くを知ってはいるが、
決して悟っているとは言えないのである。
いくら外に目を向けて知識を貪ったところで、
不安や怒りの種は自分の中にあり、
その種がある種 (しゅ) の影響で発芽するの
だと知り、
(ある種の影響とは、五感に触れた際の刺激や、
思考の中でネガティブに考えてしまうこと)
その瞬間自らの心を自覚意識で客観視しない
限りらその人はいつまで経っても不幸の種を
抱えているのである。
地獄とはそれだ。
不安や怒りを捉えて中和するのは自覚意識の
働きであり、そのようにしようと思えたのは、
しかし知識のおかげである。
知識は所詮川を渡る為の船であり、
船を動かす動力ではないのだ。
行き着きたいなら実際に自ら櫂を持って船を
漕がなければならない。
自覚意識を保つことがそれである。
意識を対象物に向けた時に物事を享受
できるのなら、
意識を自分の思考・言動・行動
に向ければ自らの習性を理解することも
出来る。
自覚意識でもって自らの心を観察すれば
自分について悟ることができる。
覚者となるために自らの「学者」となろう
ではないか。
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