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「真理は "今ここ" 無心にあり!」無心から世間を眺める一風変わった賢者の視点をARTな写真と共に洞察していきます。

「禅の逸話」…その3. 南泉斬猫

 


【朗読】[禅問答小説]禅の逸話 #3 南泉斬猫【短編】

 

 


【ASMRささやき】[禅問答小説]禅の逸話 #3 南泉斬猫【短編】

 

 

 

 

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猫児の争い

 

この話は「南泉斬猫 (なんせんざんびょう)」

と言われる公案 (禅問答) 「無門関、第14則」

に登場する逸話であります。

 

 

時は西暦800年頃の中国、唐の時代、

当時の禅宗は中国で大隆盛を極め、

この話の主人公である「南泉禅師」

という大禅匠のお寺「南泉山」には、

東西に堂を分けるほど雲水 (修行僧)で

溢れ返っていました。

 

 

お寺には一匹の猫児がおり、

お寺のマスコット的な猫児は

東西の堂を気ままに行き来していました。

 

 

そんなある日、東西の堂で

この猫児についての言い争いが勃発しました。

 

 

猫児の権利争いか、

猫児にも仏性はあるのか否か…

 

 

話の内容までは分かりませんが、

兎に角あーでもないこーでもない、

と、聞くに耐えない言い争いをしているでは

ありませんか。

 

 

住職である南泉和尚は、痺れを切らして

遂に進み出てこの猫児をグイッと掴み上げ

ました。

 

 

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南泉和尚は、猫児に小刀を突きつけてこう

言います。

 

 

「さて貴様ら、

禅僧としての一語をここで吐いてみよ。

 

確かに言いうるものがあれば猫児は助けよう、

しかし言いうる事が出来ぬのならば

猫児は斬り捨ててしまうぞ…」

 

 

南泉和尚の求めた「禅僧としての一語」とは

生半可なものではなかったはずです。

良し悪しの二元論を超えた "絶対の境地" 

表す一語が求められていたのです。

 

 

果たして覚者にそうと迫られて

雲水達は言いうる事が出来ませんでした。

誰も進み出る事すら出来ませんでした。

 

 

恥をかきたくなかったのか、

誰かが出ていくとそう思ったのか、

否、誰も悟境に到達していなかったので

ありましょう。

 

 

言いうる者がいないのならば、

師として、覚者として、

抜いた刀を収めるわけにはいきません。

 

 

"ならば" と遂に南泉は、

猫児を一刀両断したのであります。

 

 

哀れ猫児はその生涯を終え、

しかし言い争いの問題はここに解決されたので

ありました。

 

 

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どうすれば救えたのだろうか…

 

西欧諸国に禅の逸話を紹介する時、

最も理解され難いのがこの逸話であります。

 

 

動物愛護精神の云々と言わずとも、

良識のある方ならば誰もが

「果たして猫児を斬る必要があったのか?」

と問いたくなるでありましょう。

 

 

禅問答とは、師匠と弟子との一対一の対話で

あります。

 

 

南泉禅師より2〜3代後になって

禅問答を修行体系に取り入れて確立した

臨済宗の開祖「臨済禅師」以前にも

禅問答はありました。

 

 

賢明なる皆様方は

「なんでもいいから答えれば良かった

じゃないか」

と思われるかもしれませんが、

雲水は普段、南泉師匠との問答の中で、

「この空き瓶の中に入ってみよ」とか、

「そこの柱の中に収まって見せろ」

などと問われているのであります。

 

 

絶対絶命の猫児を救う一手として

あなたならどう言いえたのでありましょうか。

 

 

命をかけたこの茶番劇に参加する雲水共は

南泉師に一体何を感じて学んでいたので

しょうか。

 

 

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趙州現る…

 

夕方になり、弟子の一人である趙州禅師が

用事から帰ってきました。

 

 

趙州禅師こそは「無門関」の第一則に登場する

方であり、それは現代の臨済宗で

「碧眼録」と並ぶ二大教科書として用いられる

名著であり、覚者としての誉高い人で

あります。

 

 

帰って来たばかりの趙州は、

南泉師に挨拶すると、

昼間の出来事を聞かされました。

 

 

南泉師に "さてお前ならどう応える"

と問われた趙州はそれを聞くと、

履いていた草履を頭の上に乗せ、

振り返ってスタスタとその場を去っていって

しまったではありませんか。

 

 

それを見た南泉師は

「お主があの場におったら

儂は猫児を斬らんですんだのになぁ…」

と言ったと言うのであります。

 

 

刮目せよ…

 

これについての解釈は、古今東西のお坊さんや

仏教学者が好きなように解説していますが、

何をどう言ったところで、所詮は自分の目に

見えるようにしか、見えていないのではない

でしょうか。

 

 

その人が悟っている訳でもない限り、

この二人の境涯とはかけ離れた中訳を

差し挟んでいるにすぎないのであります。

 

 

私が色々と見てきた答えの中で

面白いと感じたものがあります。

 

 

「趙州は足の下にある草履を頭の上に乗せた

事で二元論を超越して見せた。

本来上も下もないのだと。

それでもこうして歩けるではないか、

そもそも私などどこにもいないのだ。

ご機嫌ようさようなら」

 

 

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そしてこの逸話について

臨済宗に並ぶ日本禅宗の片輪である

曹洞宗の開祖「道元禅師」はこう語って

おります。

 

 

「死や全機現」

死ぬ時は徹底してただ死にきるべし、

生死を超えた消息はそこにこそあるのだ。

 

 

 

果たして禅問答は、

気違いじみた言葉のやり取りをする

非常識な組織なのでしょうか。

 

 

しかし、言葉によって答えを示さなかった

趙州禅師の行為を是とした南泉師の意図が、

言葉に落とせぬこの現実世界を"刮目せよ" 

と物語っている気がするのであります。

 

 

さてあなたならこの猫児を救えたでしょうか。

あなたなら、猫児を斬らずに収めたで

しょうか。

あなたが猫児であったのならば、

今頃はどこにいるのでしょうか…🙏

 

 

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