お経の意味も知らないの…?
私が臨済宗のお寺で修行していた頃は、
毎日ことある毎に様々なお経を読み上げた
ものだ。
朝課と呼ばれる
朝一に本堂で行う50分間の読経の際には、
長短合わせて7〜8個のお経と文章体の文句を
唱えていた。
食事の際にも5〜6種類のお経を唱えながら
準備をし、片付けの最後にもお経を唱えた。
お寺ではお経の意味までは教わらなかったが、
天界の神様とコミュニケーションを取れる
「拝み屋.神原さん」に、お寺で唱えている
お経の意味を聞かれて答えられなかった時には
「あなたお経の意味も知らないで唱えてるの、
へぇ〜、あなたのことが大体分かったわ…」
とチクリとやられてしまった。
その時はついでに
「普段から般若心経だけは唱えておきなさい」
と教えて頂いたので、
それ以来朝晩のお祈りの際には
冒頭に般若心経を唱えるようにしている。
それからというものお経の意味を調べ、
忘れないように時々内容を
確認するようになった。
「言葉」に対する聖者の見解
思考妄想は念である。
それも確かにエネルギーではあるが、
創造の三原則である思考 ➡︎ 言葉 ➡︎ 行動の
プロセスからして、
やはり現実化は、言葉のエネルギーによって
より強力なものとなるのだ。
考えてみれば、普段のコミュニケーションに
おいて、言葉の意味を理解せずに話すことなど
ありえないのだから、お経の意味を知らずに
唱えていたのでは確かに理屈が通らない。
インド人の覚者 "クリシュナムルティ" も
"臨済宗の禅問答" でも、
言葉を全否定するスタンスをとった。
禅宗の開祖達磨大師は「不立文字」を唱え、
言葉ではなく五感を通した体験を重んじた。
「対話以外の五感での体験は言葉なくしても
果たされている。
その体験に注訳を挟むから
ややこしくなるのだ。
月は決して月などという名前ではない。
月という文字を当てはめておけば
分別しやすいだけのことであって、
人間の生み出す創造においては
この分別が重要となるから
そうしているだけなのだ。
ゆえに "体験にも感情にも心にも"
本来言葉などどこにもなく、
言葉で分別してしまうから
本来のあるべき姿が色褪せてしまって
物事がどこまでも真実から遠ざかるのだ」
しかしそうは言っても、教えが言葉によって
伝えられていることからも、
やはり言葉は媒介として、
創造プロセスの一環として
重要な役割を果たしている。
ということで簡単ではあるが般若心経を
超超超短訳した記事があるので、
よければそちらを参考にしてみて下さい…🙏
⬇︎超短訳般若心経⬇︎
「言葉は現実になるわよ」般若心経が教える知恵 - 求道作家のこだわりオーガニックど田舎生活
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