鈴木大拙氏
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覚者に憧れて
私が臨済宗での修行を熱望した最大の理由と
言えば、近年の禅系臨済宗で "覚者" と言われ、
西洋諸国に禅を広めた、故 "鈴木大拙" 氏と、
インド人にして禅の覚者、
故 "オショー・ラジシーニ" 氏の影響である。
私の人生は集中力と落ち着きと常識のない
子供時代に始まり、青春時代を通して
30歳になる頃までは人生が全く上手く
いかなかった。
それは "常に頭の中で考える癖" から
離れられず、そうしている事が誰にとっても
当たり前だと勘違いしていた事に起因して
いたのだろう。
思考習慣とは過去に見聞した知識のこと
であり、それらは個人がどんな情報に
晒されてきたかによってのみ育まれる
極めて個人的なものである。
ゆえにそれが正しいと思っているのは
自分だけであるのだ。
「色眼鏡から見る景色」 - 求道者は黙して嘘をつく…
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強固な思考習慣
常に思考習慣に苛まれていた
若かりし頃の私は、
「ここよりもあそこに行けばもっと
良いことがあるのではないか」
といつも考えていた。
"ここ" に居ても過去や未来のことで
頭がいっぱいだったから何処にいても
現状に満足出来なかったのだ。
その結果各地を転々として、
旅行に行って目的地に着いてもしばらく
したらもう飽きてしまい、
次の目的地を設定してそこに楽しみが
あるのではないかと期待していたのである。
それは遊びや仕事においてもそうで、
楽しく感じない原因が自分の中に
あるとは思わずに、
周囲の環境のせいにばかりしていたのだ。
何をしてても余計なことばかり考えていたから
結果物事に集中して取り組む事が出来ず、
やっている事が間違っているのだと
思い込んでいた。
そんな愚かな精神活動は27歳の頃に体験した
ヴィパッサナー瞑想センターでの瞑想体験を
機に、それから今日まで思考を手放す努力を
する事になった。
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臨済宗での修行体験
29〜30歳の頃に経験した古今東西の覚者に
よる著作の十数冊に及ぶ読書体験は強烈な
インパクトとなってその後の私の人生の
行く道を決定づけるきっかけとなった。
当時の私が手にした世界中の覚者の本の中に
あって日本人は鈴木大拙氏のみであった。
"禅問答" が最大の特徴である臨済宗で修行した
氏の世事に対する洞察、禅問答の解説、
体験談は私の中に
「いつか臨済宗に出家して
禅問答をしてみたい」
と思わせる契機となり、それから10年の
歳月を経て東京からドロップアウトを果たし、
41歳の頃には念願叶って半年間ではあるが
臨済宗のお寺で修行することが出来たのだ。
お寺での生活はとても刺激的で
毎朝50分間に及ぶ読経三昧に始まり、
お目当の参禅指導 (禅問答)、
日中は作務と呼ばれる作業に従事した。
そのお寺は一般人の修行体験希望者を
受け入れている数少ない禅道場であったから、
伝統に則った正式な体系の生活リズム、
修行様式ではなかったが、
規則正しい生活リズムと禅問答の答えを
日常作務の中で拈提
(ねんてい。公案を参究する事)
することは張り合いがあってとても面白かった。
座禅堂
禅宗六派の中でも二大勢力となっているのが
「禅問答の臨済宗」と「座禅の曹洞宗」
である。
"ただひたすらに座る"
ことのみに悟りへの道を求めた曹洞宗に対して、
"動中の工夫は静中の工夫の百千万億倍す"
と宣言した臨済宗は坐禅をあまり
重んじなかった。
私が修行したお寺でも坐禅に充てられる
時間は30分であり、しかもその間に参禅が
行われるので実質殆ど坐禅の時間は
取られていなかった。
しかし「禅問答」に憧れた私は言葉を
全否定するそのやり方にこそ興味を
抱いていたので、坐禅は個人的に自室で
朝晩行うようにしていた。
自室で休憩中
一般大衆道場であったから四畳半程度の
個室があてがわれ外出自由の休息日は
月に3回もあった。
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修行の効能
誰にとってもそうであるように、
欲望をコントロールするのは至難の技である。
欲望を満たす甘美な誘惑は俗世間には
溢れている。どうせなら選択肢が
目の前にない方がよっぽど楽だ。
かくして私も入山当初はそれまでの
堕落した生活さながらに、
甘いものへの誘惑や、性欲、ゴルフ欲
といった欲望を満たすことに後悔の念を
抱きつつも打ち負かされていた。
規則正しい生活リズムと朝課での読経三昧
こそ大いに精神修養の役にはたったが、
中途半端に堕落したそんな態度で修行の
恩恵を最大限享受出来ようはずもなく、
あれ程楽しみにしていた禅問答も
真剣に参究する事が出来なかった。
しかし下山予定まで残り二ヶ月半と
なった頃に「こんな事じゃいけない‼︎️」
とようやく改心し、それ以来食生活が
がらりと変わり、朝も2時〜3時に起きる
ようになり、気持ちに拍車がかかった。
それまでは大好きであった肉、魚、お酒、
小麦粉食品、マーガリン、添加物、砂糖、
加糖 (蜂蜜など)、乳製品、などを進んで
手にすることはなくなり、
それと同時になぜか性欲も失せてしまった。
休息日の昼食
そうなってからというもの、
自分ではあまり変化を感じていなかったが、
毎日携帯のメモに書いて妻に送っていた
日記の内容がそれ以前とは段違いに良く
なったと妻は言っていた。
「悟りを得る‼︎️」と宣って意気揚々と
お寺に行ってはみたが、
そんな甘いものでもなく、
結局悟り意識には到達出来なかった。
しかし、お寺での生活で早寝早起きの
生活リズムが出来たこと、
食生活が改善された事は大収穫であったし、
長年の夢であった臨済宗での修行生活も
叶ったから大いに収穫はあった。
東京からドロップアウトして新潟の山奥へと
引っ越し、それからお寺に行くまでに
四ヶ月ほど時間があったから、
田舎に引っ越してきたばっかりの荷物は
ある程度整理していたつもりではあったが、
お寺から帰るとすぐに部屋の整理整頓と
インテリアを変えた。
すると以前は必要だと思って取っておいた
物がそれ程必要ではないように思え、
断捨離が以前よりもとても進んだのだ。
おかげで部屋はスッキリし、以前よりも過ごし
やすくなった。
それからというもの食生活の改善も継続され、
散歩以外の外出も控えるようになり、
早寝早起きのリズムは目覚ましなしで自然と
行われ、朝晩60分づつの瞑想はすこぶる快調で
ある。
自宅で糠漬け
13年程前からなんとなく憧れていた
作家業にも本腰を入れるようになり、
毎日文章を書く事にやり甲斐を
感じているし、手応えも感じている。
お寺にいた頃は分からなかったが、
こうして生活の改善を見るからに
確かに成長をしているようだ。
今では遊ぶ事やお酒やお菓子などといった
欲望は全くなくなり、代わりに創作意欲が
強くなってきて一日中創作活動に
向き合っている。
これからどんな展開が待っているのかは
分からないが、それは自分次第で幾らでも
創造可能なのだという強い確信があり、
無心である事の効能を伝えていけたらと
思うのである。