•初めての瞑想体験
京都にあるヴィパサナー瞑想センターを
初めて訪れたのは27歳の頃である。
それから早14年。瞑想から得た恩恵は
平静というフラットな心の在り方による
生活環境の変化であった。
平静で居ることを選択してきた結果、
思考習慣や偏った価値観で意見する事をやめ、
それはつまり心の自由を手に入れ、
それと同時に "出来ることなら休みたい"
と思うような仕事から解放されたのだ。
ヴィパッサナー瞑想以前にも瞑想を
見様見真似でやってみた事はあったが、
瞑想が気持ちいいとか楽しいといった
ふうに思った事は一度もなかった。
ヴィパッサナー瞑想センターはインドに
ある最も古い瞑想法の一つで、2500年前に
お釈迦様が再発見し、それ以来その伝統は
脈々と受け継がれ、今では世界中に
150箇所以上、日本では京都と千葉に
センターがあり、主に10日間のコースが
月に2回程度行われている。
この10日間は携帯、読書、殺生、お喋り、
散歩以外の運動、与えられた食事以外の食物、
酒、煙草、コーヒー、一切の嗜好品、
他者とのコミュニケーション、思考妄想、
サプリメント、外出は一切禁止であり、
一日10時間半にも及ぶ瞑想を指導者の
元に行う沈黙の行である。
指導者との面談は随時行われ、夜には毎日
90分程度録音された講和を聞き、
修行の段階に起こる様々な出来事や疑問に
ついて説明してくれる。
本質的な霊能者やスピリチュアルな組織は
大体がそうであるように、ここも又お金は
参加者の寄付に頼っている非営利団体である。
•初めての本格的な実践
本格的な瞑想の実践はこの時が初めて
であったから、気持ちはやる気に満ちて
いたのだが、肝心の集中力は皆無に
等しかったから全く上手くやる事が出来ず、
思考が収まる気配など毛頭なく、
4日目で既に諦めることになってしまった。
それまで2年半住んだ沖縄を出て、
瞑想が目的で京都まで来て、この先特に
行くあても考えてなかったし、
とりあえずこの地獄のような我慢大会
をなんとか乗り切るべく、
時間になったら皆と一緒に座り、
瞑想している振りをしていた。
初心者にとっての瞑想は集中力強化の
ためのトレーニングである。
当時の私は集中力が全然なかったから
疲れてしまったのだと思う。
それはつまり筋肉のない人が一日中筋トレを
やるようなものである。
途中で投げ出して思考妄想にうつつを
抜かした後半戦であったし、真面目な
瞑想実践者にありがちな神秘体験や恍惚感、
そうまで言わなくとも心地良さといった
体験すら感じた事はなかったから、
この10日間が無意味なものであったとコース
終了後にはそう思っていた。
・トントン拍子の願望実現
しかしそんな気持ちとは裏腹に
コース終了直後から急にそれまでの願望が
叶いだす事になる。
京都に来てから
「フリマで服を買いたいなぁ…」と
思っていたのだが、センターに来ていた
若い男の子と最終日に仲良くなり、
音楽をやっているという彼は近々
京都の精華大学のオールナイトで行われる
文化祭でプレイするというので、
行ってみるとフリマも開催されていたので
洋服を調達できたり、
「京都に住みたいなぁ…」と思ったら、
その文化祭で知り合った女の子に
寒かったので買った服を貸してあげた事が
きっかけで数日後から居候すようになったり、
そのひと月後には数年前から行きたかった
ネパール旅行に友達が連れて行ってくれたり、
京都に住むようになってからは
「緑の折り畳みの安い自転車が欲しいなぁ…」
と思ったらまさにドンピシャの自転車を
みつけたり、
その後京都市内に安アパートを借りて骨董屋を
毎日巡り歩くといったまさにトントン拍子の
夢のような生活が訪れたのである。
しかし、よく考えてみればヴィパッサナー瞑想
センターにこれたのも願望が叶った瞬間では
あったのだ。
•脳内データの書き換え
その経験からその後も瞑想に本格的に
取り組むようになったのだが、
それまでの人生でほぼ長きに渡って
繰り返してきた思考習慣が簡単に手放せる
はずもなく、瞑想中は未だに思考は
"ふわっと"訪れてくる。
しかしこれまでに考える習慣であったの
ならば、脳はその都度そのように
メニュー表示してくるのは当然の作業
であるし、問題は現れてきた思考に囚われて
ホイホイとついていくことであり、
相変わらずメニューを提示してくる脳には
「過去のデータに基づいた思考のメニューを
提示しても採用されない」
という事を新たに覚えさせなければ
いけないのだ。
•奉仕としての初参加
それからは数年おきにコースに参加する
ようになり、普段から瞑想する時間も
もつようになったので参加するごとに
自身の成長が感じられている。
コースは完全に寄付で賄われており、
コース参加者のサポートをする奉仕者も
ボランティアである。
これまでに5回の10日間コースと、
10日間コースの奉仕を1回行い、
計6回のコース参加であるが、
奉仕として参加する以前は 、
「奉仕として参加するよりも瞑想に
打ち込んだほうが絶対成長出来るはず」
と思っていたし、
「忙しい仕事の合間をぬって12日間も
休むのだからやっぱり生徒の方がいい」
とも考えていた。
しかし仕事をドロップアウトして時間的に
余裕が出来たことがきっかけで初めて奉仕
として参加する気になり、実際に奉仕者
として参加する事になった。
•奉仕の方が意識が高い
奉仕者の役割とは瞑想に打ち込む生徒の
衣食住のサポートである。
主に食事の準備となるのだが、
生徒の時は一日10時間半の瞑想時間が、
奉仕者となると全員で行うグループ瞑想の
3時間のみとなるので、
はっきりいって楽である。
奉仕をするにあたっては「奉仕者の心得」
というものがありそれらを遵守する事を
求められる。
•奉仕者の心得
- 笑顔を常に絶やさない
- 男女の分離
- 節約
- 自分を観察し、感謝の波動を常に保つ
- 必要以外の言葉を喋らない
- 常に愛を持って人々に接する
- 不殺生
- 性行為の禁止
- 盗みを犯さない
- 嘘をつかない
- 酒・麻薬類を摂らない
生徒として参加している時は自分の
感覚にだけ注意を向けていればいいので
成功も失敗も全て自分の努力によるのだが、
奉仕者となると
自分の修行➕奉仕者との関わり➕
生徒さん達のサポート
という意識の視点が双方向に求められ、
それらの振る舞いは真剣にやればやるほど
難しく、生徒として自分にだけ
向き合っている時よりも他人を気遣う分
難しいと感じた。
しかし、それまでの瞑想的生活が
上手くいっていた私は、奉仕者として
そこそこ上手く立ち回れていたようで、
他の奉仕の方や長期滞在の
マネージャーさんに大変褒められた。
私はお米を炊く係をしていたのだが、
毎日約90人分のお米を炊いていると時には
沢山余ったり、時には足りなくなったり
するのだが、マネージャーさん曰くお米担当
の人は炊く量の調整が難しいので
悩んだり落ち込んだりする事が
よくあるのだと言う。
私はそんな事は全く気にならず、
それよりもむしろ戒律を守る事に
フォーカスしていたので、
はっきりいって沢山余ろうが足りなかろうが
次に改善すればいいくらいにしか
思わなかった。
•慣れた頃にミスを犯す
その期間の奉仕参加者は多かった為、
男女それぞれ交代で一日づつ休む事になった。
私は7日目に休みをもらったのだが、
その日一日は生徒として皆さんと同じ
スケジュールで座ることにした。
すると途轍もなく疲れてしまい、
改めて生徒として参加する事の大変さを
実感したのだ。
あけて8日目。
私は食事の準備が整った事を最終確認する
役割も担っていたから、特に男子の方は
私の責任となっていた。
最終確認を行う際にはA4のラミネートを確認
しながら行うのだが、8日目にもなって慣れて
きたし、前日の瞑想三昧に疲れていたの
かもしれないが、その日の朝はラミネートを
使用しての確認作業を怠ってしまった。
毎朝の食事にはパンが出されるのだが、
ストレスの多い瞑想三昧の生活では
食事は自ずと楽しみとなる。
甘いジャムなども使えるので、
パン好きな人にとってはとても楽しみな
時間であり、パンは人気である。
しかし私はその朝男性側の食堂にパンを
出すのを忘れてしまったのだ。
生徒さん達はサンカーラと呼ばれる
過去の嫌悪感にひたすら向き合う
生活を続ける中で、その生活を
何不自由なくサポートする立場で
あるはずの私のミスで彼らの中に
「えっ、今日パンないの⁉︎」
と新たなサンカーラ (過去の嫌悪感)
を生み出してしまったことだろう。
自分の感覚と思考と行動を注意深く観察し、
変えるだけでも注意力がいるのに、
相手の事まで気遣わなければならない
奉仕の仕事は
"私が思っていた以上に難しい仕事なんだなぁ"
と痛感し、恐らく真剣に
向き合えば向き合うほど更に難しく
感じるのではないだうか。
そしてふとした時に垣間見える奉仕者の
人達の細かい所作の中に、その人が
どれだけ真剣に取り組んでいるのかも
見えてくるので、それだけでも
"面白いなぁ" と感じるのである。
•コースの参加は半年に一度
生徒としてヴィパッサナー瞑想に
参加出来るのは半年おきであるが、
奉仕の楽しみもよく分かった事だし、
生徒と奉仕の合わせ技で続けて参加すれば
2度おいしい体験が出来るので
今後が楽しみである。
時間が許すのであれば、どちらが先でも
構わないから生徒と奉仕を続けて
やってみるといい。
ポジティブな波動が保たれているあの地に
留まるだけでも世俗よりは良い影響が
得られるはずだ。
•実践生活
東京からど田舎に引っ越してきて
普段は全く人と合わず、散歩に行っても
殆ど人とすれ違わない生活は
とても気楽である。
肉体労働を辞めてからというもの
疲れも溜まらくなり、これまでにないほどに
瞑想に集中出来るようになった。
お寺で修行していた頃は睡眠時間を
削ってまで坐禅に打ち込んでいたが、
今考えれば心身共に充実している時の方が
良い瞑想が出来るので、例え座る時間が
短くなろうとも疲れている時は
休んだ方がいい。
それに瞑想であれ貯金であれ、
毎日コツコツと実績を貯めていく事は
確かな成長となるから、
例え五分でもいいから毎日座ることである。
忙しい時にこそ一度頭を休めて
リラックスした方が
いい発想が浮かぶというものだ。
瞑想に慣れてきて集中力が増してくると
無心で居ることが出来るようになる。
無心とは無思考であり、
感情に左右されない心の状態であるから
平静であり中庸とも呼ばれるのだ。
思考は感情を助長し、
感情は更に思考を助長する。
そのスパイラルは延々と繰り返されて
波の上下のように自然の摂理に従って
良いことと悪いことのうねりの中で
右往左往しているのだ。
必死になって外側を見て、沢山の知識を
獲得したところで幸せの種は自分の中に
あるのだ。
その種を見つけ、育むことが出来るのは
自分でしかなく、誰も本当の意味で
自分以外のことに興味などない。
例えあなたが大事に思っている子供にしろ
恋人にしろ家族にしろ会社にしろ
様々な物事にしろ、なくなってしまえば
後に残るのはあなただけではないか。
その時あなたはどうするのか。
その時あなたが無心で居られれば、
過去の思い出が煩わせるあんなに
好きだった人や物事が自分の心の中に
なければ何処にもないのだと知ることだろう。
瞑想はその為のものである。
刺激の最も少ない環境の方が、
自分の心身の動きに注意深くなれる
というだけのことだ。